DJのJunさんが、2/22にしかのいえ縁がわ大学でしてくださったジャズに関する講義の、資料の冒頭にこんな言葉が小さく記されていました。
◆When you hear music, after it’s over, it’s gone in the air. You can never capture it again.(Eric Dolphy 1964.6.2)
私なりに和訳してみます。
◆あなたが聴いている音楽は、終わってしまえば、空中へと消えていきます。あなたは決してそれを二度と捉まえられません。(エリック・ドルフィー 1964.6.4)
エリック・ドルフィーのこの言葉は、ジャズだけに留まらず、広くすべての音楽の根幹に関わる大切なことを含んでいます。
ただしこの発言は、私たちが日々当たり前に、頻繁に行っている会話の都合に縛られて、ひとつだけ誤りを含んでいます。
音楽は、本当は「どこにも」消えてなどいないからです。
あるいは同じことになりますが、音楽は最初から「どこにも」無かったからです。
音楽の「在る」について語る時、空間的なカテゴリーを使用すれば誰でも決定的に誤ります。
高名なジャズプレイヤーであっても例外ではありません。
なぜ、こういう誤りが起こるのでしょう。
何かが「在る」ことを考えようとする時に、私たちの多くは、もっぱら生活上の都合から、半ば自動的に「では、どこに?」という問題の立て方をします。
ドルフィーの上の言葉も、そうした生活習慣に素朴に従いながら発せられています。
とは言え私たちは、平穏に暮らしていくためになら、この習慣に逆らう必要などまったくありません。
そんなことを頻繁にし始めたら、私たちは自分の歯ブラシの置き場ひとつ満足に探し当てられなくなるでしょう。
日頃の自分を棚に上げて、ドルフィーの発言を呑気に笑ったり、否定したりできる生活者など、この世にひとりもいないのです。
ドルフィーは、真に語り難いことを、それでも果敢に語ろうとした。
そう考えたほうがいいでしょう。
音楽にまつわる彼の抑えようのない思いを、言葉という融通の利かない器から溢れさせながら私たちのもとに届けてくれたと。
しかし、生活の中で音楽を「使う」のではなく、在るがままの音楽と向かい合おうとするなら、ドルフィーの真情に最上級の敬意を表しつつ、私たちはこう言わなくてはいけません。
音楽の「在る」は時間と切っても切れない、と。
「時間」と言っても、たとえば時計の目盛りやカレンダーの日付などに置き換えられ、すっかり空間化された目に見える連なりのことではありません。
音楽を成り立たせる時間とは、空間中のいかなる座標も占めないにもかかわらず、私たちの心を直に波立たせ、私たちの心そのものと区別がつかなくなるほどぴったりと寄りそって動き続ける、ある質的な連続変化そのものです。
それは、私たちが日常的に目にする物質とは異なった、本当に独特な在り方をしていますが、物質が在るのと同じ意味合いで、確かに実在しています……
写真は、講義の最中、準備してきた音源に生徒さんたちと一緒に耳を澄ませているJunさん。
私には、Junさんが音楽の「在る」を一瞬たりとも逃さずに受け止め尽くそうとしているように見えます。
身じろぎもせずに音楽を聴くJunさんからは、「好き」を突き詰めた先で体得した音楽への揺るぎない信頼と敬意が濃く滲んでいるように見えます。
きっとJunさんは、音楽というものをまったく疑っていない。
ベテランの登山家が、目の前に聳える山の確かさを決して疑わないように。
講義を終えたJunさんは、参加者全員に、曲名を書いた紙の短冊をクジのように引かせてくれました。
ジャズの曲のプレゼントです。
私の手元には Bill Evans Trio の Like Someone In Love が、「眠れない夜に」の添え書きと共に届きました。
YouTubeでくり返し聴きながら、自問しました。
「この曲は、どこからここに来てくれたのだろう?」
仮に誤りだと分かっていても、音楽にまつわる「どこ」を喜びと共に問わずにいられないこともある。
思わず笑顔になりながら、エリック・ドルフィーの気持ちが、少しだけ分かった気がしました。
Junさん、最高に素敵な講義をありがとうございました。
「暮らし」から「つながり」と「仕事」を作る実験室
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