おはようございます。
上十条2丁目界隈は穏やかで暖かな朝を迎えています。
これからお出かけという方も少なくないかもしれませんね。
どうぞ良い日曜日を。
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3月20日にこちらの文章を投稿してから、考え続けています。
べルクソンが生涯をかけて取り組んだ著述と、彼が「詭弁じみた弁証法」と呼んで遠ざけたものの違いについてです。
もちろん『ベルクソン哲学の遺言』という本には、その違いについてはっきりと書かれていますが、挑戦したいのは、記述の要約ではありません。
そこに書かれた言葉たちの中で鳴っている調べを、私も奏でることです。
くり返し読みながら心動かされたメロディを、私も詠うことです。
まだ、まったくできていない。
そう感じます。
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「哲学に欠けているもの、それは正確さである」
ベルクソンが、長い年月をかけて自分の目指してきたところと、「詭弁じみた弁証法」に欠けているものとを同時に示したのがこの一文です。
両者を分かつのは「正確さ」の有無です。
ベルクソンは言います。
正確さを期するためには「対象に密着した説明」が必要だと。
「その対象にだけふさわしく、その対象にしか当てはまらない」説明が、です。
変化が少なく安定した規則性を備えている「物質」を取り扱う科学の説明には、それが可能だとベルクソンは考えます。
他方で「詭弁じみた弁証法」は、こうした正確さなど気にも留めません。
そこで用いられている概念はどれもみな大きすぎて、私たちが暮らしている「現実(レアリテ)の寸法」に合っておらず、まるでぶかぶかの服のようです。
では「詭弁じみた弁証法」は、その大雑把な概念を使って何をしているのか。
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それは、ただわけもなく世界全体を説明しようとしているのである。
そこでは、説明される対象は、しばしば説明そのものから作り出されている。
現実にはないものが、あるかのように語られている。
そうやって、解きようのないたくさんの難問が発明される。
ここから、一種の根深い病気が、人間の精神に発症するのである。
(P36/L5)
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「在るもの」とは無関係に、勝手気まま、好みのままに進められるおしゃべり。
ベルクソンは、自分の仕事をそういうものとは区別しました。
そうして彼が選ばざるを得なかった「対象」は、科学が扱う物質のように決して同じままではいてくれないけれど、確かに在るとしか考えようのない「時間」、すなわち「持続」でした。
持続という、流れ続け、変化し続けるものを相手にした時「対象に密着した説明」とはどのようなものになるのか。
ベルクソンは、彼の任意ではなく、対象によって強いられた困難からこうした「問題」を創り出し、まず「内的生命の領域」に沈潜する道を選んだことは3/20の投稿で触れた通りです。
彼は、切れ目なく変化しながら流れていく内なる心模様に、心の眼を開く努力を続けることになります。
大きな困難がもうひとつありました。
対象を切り取ったり、比較したりするのは得意だけれど、動くものをそのまま捉えるにはあまりに不向きな、「言葉」という道具を使わなくてはいけなかったことです。
この道具は、科学の「測定」という方法には実に役立ってくれますが、ベルクソンがしようとしていた仕事にとっては、手枷足枷になることが多々あったはずです。
彼はどうしたのでしょうか。
たとえば、変化し続ける持続のニュアンスを、次々に言葉にしていったのでしょうか。
そうではなかったはずです。
持続を直に言い当てようとする愚を彼は犯さなかった。
どれだけ細やかなニュアンスに富んだ言葉選びに成功しようと、言い当てようとした途端、持続は堰き止められ干上がってしまいます。
持続を相手にするのなら、観察者の不用意な働きかけによって対象が損なわれてしまう危険があることを忘れてはいけません。
彼は沈黙から始めるしかなかったはずです。
なぜなら、それこそが持続に対する言葉の最も「正確」な向き合い方だから。
あるいはこう言ってもいいです。
彼が求め続けた説明の「正確さ」は、極めて厳密な《言い淀み》という礎石に節目節目で立ち戻ることによって次第に研がれていった、と。
生産的な言い淀みの中に身を置きながら、時間をかけて己の内側に育ってくるものについて語る工夫を続けること。
ベルクソンの仕事は、そういうものだったに違いありません。
「暮らし」から「つながり」と「仕事」を作る実験室
暮らすLaboratory しかのいえ
公式サイト https://shikanoie.com