3月15日の日曜日に開催した講座、第1回「みんなでゆっくり読む『ベルクソン哲学の遺言』」。
「詭弁じみた弁証法に用はない」
本文中にあったベルクソンのこの一言で、参加を決めた方がいらっしゃいました。
過日の対話では、このことについて十分お話ができなかったので、少しだけ補足をいたします。
件の一言は、下記のような一節の中に出てきます。
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ここに、ひとつの哲学的問題があるとする。
私たちは、それを選んだのではない。
それに出くわしたのである。
それは私たちの行く手を塞いでいる。
そこで、すぐにも障害を取り払いにかかるべきか、
もはや哲学をやめなくてはならないか、このふたつになる。
言い逃れをしても無駄である。
詭弁じみた弁証法に用はない。
そういうものは、注意を眠り込ませ、
前進の幻想をまどろみのうちに与える。
困難は解決されなくてはならず、
問題はその諸要素に分解されなくてはならないのだ。……
(In-2,p.1309)
(『ベルクソン哲学の遺言』前田英樹・講談社学術文庫版 P30)
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ベルクソンにとって「哲学的問題」とは「時間」でした。
「測定」によって、時計の上の目盛りや、グラフの上の線分などに置き換えられ、すっかり空間化された時間ではありません。
彼が探ろうとしたのは、いかなる空間的な拡がりにも置き換えられることなく流れ続ける時間、「実在の時間」との向かい合い方でした。
彼は、それまで興味の無かった「内的生命の領域」を見つめることから始めました。
私たち各々の内側で、切れ目なく次々と色づきながら変化し続ける心模様を見つめることからです。
ベルクソンが、質を変えながら運動し続けるこの流れのことを「持続(あるいは時間)」と呼んだことは、よく知られている通りです。
ある意味では私たちにとって最もありふれており、最も親密でもあるこの内的な持続。
これは、どこの誰が何を考えようが考えまいが、また何を好もうが好むまいが、決して無かったことにはできません。
それどころか、私たちが何かを考えたり、好んだりする手前のところに、いつもこの内的な流動はあります。
精神的なものであれ身体的なものであれ、命ある私たちのあらゆる行動は、各々が浸されているこの持続から身を起こすところから始められます。
生活の中で私たちが細々と応接している「物」や、科学が上手に取り扱っている「物質」とは、在り方がとても違っているけれど、それは独特な形で確かに在る。
この事実に対して、誰ひとり選択の余地などありません。
ベルクソンが「出くわした」のは、ある意味では彼の近くに、生まれた時からあまりにも近くに在り続けていたものでもあったのです。
繋がっているものを切り離して、並べたり、比較したりするのにとても適している「言葉」という道具にとって、持続は手強い「障害」です。
持続について「正確」に語るための言葉の工夫を独りで続けたベルクソンの眼には、この工夫の「困難」を無視して立てられる心的な運動や進化に関する理論は、どれも「詭弁じみた」ものと映ったことでしょう。
たとえば、テーゼ(正)にアンチテーゼ(反)が対置され、両者がアウフヘーベン(止揚)されてジンテーゼ(合)が生まれ、次いでこのジンテーゼが新たなテーゼとなり、以下同様に続く……
言葉による切断に抗い続ける持続の黙した圧とでも言うべきものに鈍なまま、ぺらぺらと何もかもを説明しようとする理屈の虚しさにはとてもつき合い切れない。
これがベルクソンの実感だったのではないでしょうか。
ちなみに、本書の中でベルクソンの熱心な愛読者として紹介されている小林秀雄は、こんな文章を残しています。
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成る程、己の世界は狭いものだ、
貧しく弱く不完全なものであるが、
その不完全なものからひと筋に工夫を凝らすというのが、
ものを本当に考える道なのである、
生活に即して物を考える唯一つの道なのであります。……
しかしどの様な問題に出会っても、
こういう考え方だけを信ずるという事が難しいのである。
確かに手元に摑んでいる不完全なものから
工夫を積んで行くという苦しい道を捨てたがる。
一足飛びに完全に考えようとする。
考えが抽象に走るという事は、
完全な考え方というものの気楽さに溺れる事に他なりませぬ。……
肯定は否定を考えるからこそ肯定である、
否定は肯定あってこそ否定である、
真理は両者を丸薬の様に丸めた処に存する、
と言った様な完全な物の考え方を学校で教わって、
皆その流儀でやり度がるから、
考えるという事について堕落して了うのであります。
(小林秀雄『考えるヒント3』~文学と自分~/文春文庫版・P339~340)
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死ぬまでの間、誰もが小さな生身をひとつ背負って何らかの「行動」を続けなくてはいけない以上、立ち向かうべき「問題」は、いつでも具体的に限られた場所と、日付を以って区切られた時間の中で起こります。
私たちの持続も、いつでもそういうところを流れていますし、「狭い」その世界から離れて「完全な考え方」に走ることは、私たちの「注意を眠り込ませ、前進の幻想をまどろみのうちに」もたらすことでしょう。
小林が真理の丸薬と揶揄したものを、本書に出てくる言葉を借りて「暇つぶし」の賜物と呼んでも、あながち間違いとは言えないのではないでしょうか。
『ベルクソン哲学の遺言』。
先はまだ長いですが引き続きおつき合いをいただければ幸いです。
ではでは。
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