最近のことです。
近所の公園の、満開になった早咲きの紅梅の木に目白が一羽。
枝から枝へ器用に飛び移りながら花の蜜を吸っていたと思ったら、不意に羽ばたいてどこかへ飛んでいきました。
目白は、しばらくすると別の一羽を連れて戻り、今度は二羽で花から花へ。
慎ましい紅い叢雲を縫って、親し気に鳴き交わし飛び交う鶯色の小さな鳥たちは、羨ましくなるくらい仕合せそうでした。
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3/15(日)の午後に予定している、しかのいえ縁がわ大学の講座「みんなでゆっくり読む『ベルクソン哲学の遺言』」。
◆Facebookの講座のページ
◆Peatixの講座のページ
一人ひとりがこの本を読んで感じたことや抱いた疑問を、参加者全員で残らず共有し、みんなで考えながら前に進んでいければと思っています。
3/15は、講座の流れや雰囲気を掴んでいただく意味も込めて、私の疑問から出発させていただきます。
講座のために準備した私の第Ⅰ章の読書ノートには、十の問いがあります。
たとえば、こんな問いです。
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第Ⅰ章 遺言状
◆テキストP12/後2~
といって、その内容をかいつまんで紹介したりすることが、やさしくなってきたわけではない。むしろ、そういうことはいよいよ難しくなってしまった。紹介する者自身の、よほどの言葉の工夫が要求されるだろう。
→(「四十年以上」愛読してきた)本の紹介が「難しい」のはなぜか?(問01)
→ここで求められている「言葉の工夫」とは、具体的にはどういうことか?(問02)
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著者の前田英樹氏は、上記の文章を書きつけた時点でベルクソンの全集を「四十年以上」愛読してきています。
ならば、そこに書かれていることのあれこれを、前田氏ほど知っている人は稀でしょう。
にもかかわらず「かいつまんで紹介することが」「いよいよ難しくなってしまった」。
それはなぜでしょう。
前田氏は文章の要約が苦手なのでしょうか。
この本を素直に一読すれば、そんなことはあり得ないとすぐにわかります。
私の仮説はこうです。
おそらく文章を「かいつまむ」ことによって、つまり賢(さか)しげに要約することによって言葉と言葉の間をすり抜け、流れ落ちてしまうものにこそ、ベルクソンが生涯をかけて明らかにしようとした何事かの本体がある。
その何事かの持っている性質が、要約という接近の仕方を拒んでいるわけです。
ベルクソンの書いたものを読めば読むほど、前田氏にはそのことが骨身に沁みてわかってきたのではないか。
そして、これは第二の疑問にも結びついていくのですが、その何かを人に伝えるためには、ある「言葉の工夫」が必要になる。
では、その工夫とはどういうものなのでしょう。
私も答えを持っているわけではありません。
ご参加いただく方々のお知恵お借りしながら、考えを深めていければと思っています……
と、まあこういうテンポですので、第Ⅰ章だけでも、いや私が抱いている疑問に限っても、おそらく一回ではすべてを終えられないでしょう。
講座名通り、ゆっくり、ゆっくりと進んでまいりますので、おつき合いをいただければ幸いです。
また、万事がこういう調子になると思いますので、苦痛な方には本当に苦痛な時間になるのではないかと推察いたします。
ご参加は、くれぐれもご無理のないようになさってくださいね。
ではでは。
「暮らし」から「つながり」と「仕事」を作る実験室
暮らすLaboratory しかのいえ
公式サイト https://shikanoie.com