センジュ出版と夢を語る「声」05

本の出版

「声」はどこからやってくる?

これから書くことはすべて、
『ゆめの はいたつにん』という本と、
7月24日のイベントで
見聞きしたことだけに基づいた、
私の拙い推測であることを
予めお断りしておく。

そもそも、
吉満さんが聴いた「声」は、
ゆーやくんが聴いた「スネア」は、
教来石さんが響かせていたものなのだろうか?

他の誰でもない
教来石さんという女性を通じて、
その響きがやってきたという意味で
答えはイエスだ。

しかし、
響きの源泉が教来石さんから
はみ出しているという意味で、
答えはノーだろう。

「声」にせよ「スネア」にせよ、
それは、
もったいぶった前置きの割には
案外簡単に打ち明けられる
本音のようなものとも、
ダダ漏れ的なぶっちゃけ話の類とも、
およそかけ離れたものであるに違いない。

本の中では「天啓」という言葉が
使われていた。

なるほどそうだ。

もしも響きの源泉について
敢えて説明しようするなら、
最後の最後のところで、
それは天から来たとでも言う他ないだろう。

あの孔子でさえ、そうしたではないか。

響きは、
個人という単位を
あちこちから眺めまわし
いじくりまわしているだけでは
決して説明のつかない場所から
やってくるけれど、
多くの場合は
長い時間をかけて出来上がった
一人ひとりの人間の個性に応じた
独自な形で顕れる。

「人は誰も、自分の中にある価値観から
逃れることはできない」(P165)

これは教来石さんが
ある人から受け取った大切な言葉だ。

本の中で彼女は、
自分の価値観は
「映画」×「途上国」×「子ども」
だと書いている。

こうした価値観が、
やってきた響きに
具体的な形を与えるための
大切な弦になる。

弦になり、
響きを伝える楽器になった人は、
当人の満足だけでは
完結できない「夢」を、
否応なく強られることになる。

強いられ、
「夢」を語るその「声」は、
当人の好むと好まざるとに関わらず、
激しく人を巻き込む力を
持ってしまうのではないか?

教来石さんが書くという
恐るべき「長文メール」は、
ここぞと言う時に、
ワールドクラスのサッカー選手の
キラーパスのような精度で
仲間たちを動かしてしまうのだ。

響きは、
根底から鳴り始めた一人の人間から
他の人間たちに次々と伝わり、
伝わった人々に、
自分もそのように在りたい、
そのように生きてみたいという
強い模倣の欲求を掻き立てていく。

そして響きの連鎖の中にいる者たち全員に
深い喜びをもたらさずにはおかないのだろう。

人間に備わった利他性の自然な発露だろうか?

そんな風に言えば
聞こえはいいかもしれない。

しかしそれは同時に、
小さな人間をある時捉え
散々に引きずりまわす力でもある。

教来石さんがかつて抱いていた
映画監督や脚本家になる夢、
センジュ出版創業前の、
大きな数字を追い求める
吉満さんの猛烈な仕事ぶり。

確かにそこには
無理な力のかかり方のようなものは
あったのかもしれない。

でも、そこに嘘があったとは
私にはどうしても思えない。

逆にどちらも、
渦中にいる当事者からすれば
他の在りようを
思いつくこともできないくらい、
リアルなものだったろう。

けれども、
どこかからやってくる不思議な響きを、
何かの加減で
一度身に帯びてしまった人間は、
きっともう元通りでは
いられなくなるのだ。

それまで築き上げてきた生活も、
ものごとに処するための方法も、
あっけなく押し流されてしまうのだ。

そんな状況下で、
一体誰がいつまでも
主体的でいられるだろう?

一瞬たりとも受身にならずに
済むことなどできるだろうか?

これは、
文字通りの生まれ変わりに等しい。

ならば、
生まれてきたばかりの赤ちゃんが
産声を上げるように、
たとえ激しく泣いてしまったとしても、
そのくらい仕方がないではないか。

響きや「夢」の到来に、
闇雲に怯える必要はない。

それは人間にとって悪いものではない。

それは吉祥であり、
多くの人々に安らぎある生活を
約束してくれるものでもあるだろう。

でもそこに、
響きをもたらした何ものかへの
畏れの気持ちが一片も無かったら、
人はとんでもなく
誤ってしまう気がしてならない。

ほとんど誰にも真似できないくらい、
果敢に「夢」に取り憑かれる力。

「夢」を身の内に保ったまま、
全身全霊で鳴らせ続ける忍耐力。

強い「声」の持ち主が備えているのは、
自分を超えたところから
何かを受け取り続け、
私たちのところに
送り届け続けるための
こうした寡黙な能力である。

「声」を響かせる、
それ自体は言葉を持たない力は、
まずは己を外に向って開き
十全に「声」を受け取る力、
聴く力である他ない。

だから、出版という局面では、
教来石さんが主に「声」を響かせ、
吉満さんは聴いていたけれど、
他の局面でお二人の役割が
入れ替わったとしても私は驚かない。

そして、
お二人が持っているのと同じ力を
私たちが何らかの度合いで
持っていなければ、
誰も『ゆめの はいたつにん』という本に
実のある何かを
感じることなどできはしないのだ。

もしも自分のところに
その響きがやってきたら?

自分が「声」の
持ち主になってしまったら?

心配な方には、
この本を熟読することを、
迷うことなくおススメしたい。

そこには、
ものごとに器用に
対処するためのノウハウは
ほとんど書かれていない。

センジュ出版さんが出しているのは、
一人ひとりが皆違う
人間に関わる本であって、
家電の取扱説明書ではない。

詳細に書かれているのは、
長い時間をかけて
一人の人間の中に醸され
洗い残された軸が、
ある時不思議な響きを捉えて鳴り始め、
鳴り続けている事の次第だ。

他の誰にも真似ようのない形で
いつか鳴り始めるかもしれない
あなたにとって、
千万の賢しい実用情報が一体何になる?

いざという時、
あなたを本当に支えてくれるのは、
『ゆめの はいたつにん』の中で
描かれているような、
小さいけれど
動かしようのない事実しかない。

(終わり)

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