「記憶」の在り処

本の茶屋

昨日購入した『東京人』2月増刊「王子飛鳥山を愛した渋沢栄一」、カレイドスコープのような「雑誌」の楽しさ満載で嬉しい!北区上十条しかのいえです。

本日1/26(火)、しかのいえ本の茶屋は定休日。

今週の店開きは明日からです。

しかのいえ本の茶屋とは?

哲学者、アンリ・べルクソン(1859~1941)は、その著作『物質と記憶』の中で、人間の脳と「記憶」の結びつきについて、時代を超えて決定的であり続ける分析をして見せました。

この分析は、彼の勝手気ままな思弁ではありません。

結論に至る道筋では、当時の大脳生理学の最新の知見が徹底的に、また公正に参照されました。

「脳はHDDやSSDのように記憶を貯蔵する倉庫ではない。脳は人間の知覚に基づいた“行動”に向けて、その都度必要な記憶を蘇らせる物質的なメカニズムに過ぎない」

これが、ベルクソンの結論の一端です。

つまり、脳という物質をどれだけ細かく切り刻んでいっても、決して記憶は、あるいは心は見つからない。

記憶それ自体、心それ自体は、物質のように空間的な座標を占めて存在してはいない。

記憶や心は、「どこにある?」という問い方そのものが往々にして不適切になってしまうような在り方をしている何かである。

もちろん、脳以外の身体の部位のどこかに記憶や心が局在しているわけでもありません。

モノはココロの容れ物にはなれないのです。

では、この身体が滅びた時、記憶は、心はどうなるのでしょう?

私にはよくわかりません。

でも、もしもベルクソンがたどり着いた場所に同じように立つとするなら、少なくとも次のことは言えます。

それは、身体の消滅は、記憶や心の消滅の根拠にはなれないということです。

「死んでしまった人の記憶や心はすべて無に帰す」と言い得るためには、身体の消滅以外の根拠がどうしても必要になります。

また次のようにも言えます。

記憶が脳や身体の中に無いとするならば、「行動」の工夫如何によっては、個人が経験した過去を超えた記憶が蘇るかもしれないということです。

ベルクソンの著作の愛読者でもあった小林秀雄という人の批評は、こうした「行動」の工夫そのものでもあったと言っていいでしょう。

写真は、昨日『東京人』を購入した王子ブックスさんの店頭。

本屋さんもまた、脳と同じように、個人を超えた記憶や心を私たちのもとに届ける、物質的なメカニズムのひとつなのかもしれません。

ではでは、また。

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「暮らし」から「つながり」と「仕事」を作る実験室
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